私がラテンアメリカに移住するまで4「カリブの野球島」

スペイン移住のきっかけ

*最近よくご質問をいただく、スペイン・ラテンアメリカに住むことになったきっかけ&体験談です。
以前、別の場所に投稿した記事をできるだけそのまま転載しています。

延々と続いたサトウキビ畑が少し途切れると、山羊と馬が数頭見えた。
子供たちの歓声が聞こえてくる。

念願のドミニカ共和国の “球場”で

殺風景な空き地だが、ちゃんと金網のバックネットも、石を並べたベンチもある。
山羊や馬がつながれていた木製の柵は外野フェンスだった。

「いやぁ、名前なんてないけどね」
セサール・アルカラさん(38)は笑った。

「でも野球場だよ。地区の名前を取ってインビセア球場かな。
チーム名はBravo(勇敢な)さ。強そうだろ」

監督である彼は、選手たちに練習開始のダイヤモンド1周を命じた。

カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の東3分の2を占める、ドミニカ共和国。
日米のプロ野球に多くの選手を送り出すこの島を、初めて訪れたのは1997年1月だった。

大リーグのゆりかご「サン・ペドロ・デ・マコリス」

首都サントドミンゴから東へ車で1時間半。
「大リーグのゆりかご(La cuna de peroteros de grandes ligas)」と言われる、San Pedro de Macoris(サンペドロ・デ・マコリス)。

野球の盛んなこの国でも、最も多くのメジャーリーガーを生み出す町。
人々の自慢でもある。

「日本から来たの?フランコの実家なら、すぐそこだよ」
ひとりの少年が指さし、教えてくれた。
毎年オフに、里帰りしたフランコは野球教室を開いてくれる、と喜ぶ。

あのサミー・ソーサも、この地区で育った。
「家が貧しくて、靴磨きで家計を助けながら、いつも夢を抱いてボールを追っていた」
そう語るソーサは、いまも少年の眼の輝きを失わない。



少年たちの夢はメジャーリーガー

同じ瞳が並ぶ選手たちを眼で追いながら、アルカラさんはいう。

「自分はもうプレーできない。
でも子供たちを教え、育っていくのを見るのは最高の幸せさ」

サトウキビ工場で働き、ひとり週5ペソ(約42円)で、5歳から18歳までの少年たちを、毎日指導する。

18歳になれば、プロ野球ウィンターリーグのエストレジャスの本拠地に連れて行き、
大リーグのスカウトに見てもらう、と言う。

糸のほつれたボールが4個、金属バット3本。
裸足の外野手も、素手の二塁手もいる。

それでも屈託のない笑顔の少年たちはみんな、
「大リーガーになりたい」
と、母国出身のスター選手の名前を並べた。



私がドミニカ共和国にいる理由

私は、念願が叶い
ドミニカ共和国の土の上にいる。

ドジャースタジアムで、
モンデシーとラモンのプレーを見て以来、
アメリカのスタジアムに通うようになった。

そして、
そこで触れた多くのドミニカ共和国出身選手のプレーは、
私に、何年分もの、鳥肌を立たせてくれた。

しなやかでバネのある身体。
全力投球、全力疾走、フルスィング。
身体全体からみなぎる野球への情熱。

そこには、
単にお金を稼ぎたいというハングリー精神だけでは片付けることができない、
何かがあった。

彼らのプレーが何度も蘇り、
今度は、

「彼らが育った国」
「子供の頃遊んだ広場」
「彼らの町の空気」

に、触れてみたくなった。

そして、
初めて彼らのプレーを見てから2年後、
夏の太陽と青い空が輝く楽園にたどり着いたのだった。

(続く)

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